読書日記【001】 文学的表現の核心

夕方、海岸を散歩する。風は穏やか。男の子と父親が砂浜に並んで腰掛け、ポテトチップスをつまんでいる。波打ち際にカラス。日が沈む。

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情報の多義性と不確定性を増やす。これが文学的表現の力ではないかと。なるほど、たしかにと思う。

一つの言葉に複数の意味が宿るとき、複数の解読結果の可能性が生まれる。例えば和歌の掛詞のように。「みをつくしても逢はむとぞ思ふ」の「みをつくし」は、「澪標」でもあり「身を尽くし」でもある。どちらか一つに意味が確定しない。

そもそも言葉は、言葉が示そうとする事象より数が少ない。「美しい」というありふれた言葉にさえ(たとえば大辞泉によれば)4つも意味がある。文学は、言葉そのものの曖昧で多義的な性質を引き出すための営みと言えるかもしれない。

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しかし、曖昧で多義的であることこそ、まさに文学的表現の核心です。安全を担保するために、この三つの物語に含まれる真の情報は、かならずテキストの奥深くに隠されているはずですが、それは、情報の多義性と不確定性をさらに増すことになります。

つまり、われわれが直面する困難は、この三つの物語の中から真の情報を解読できないことではなく、あり得べき解読結果の可能性が大きすぎて、どれが正しいのか確定できないことにあります。

劉 慈欣(著),大森 望 他(訳)『三体III 死神永生 下』早川書房,p.69

物事を曖昧にする力によって、自分を取り戻すことがある。単一の価値観、唯一の神、絶対的な真理を押し付けようとする外からの力に屈し、自分を見失いそうなとき。本当は唯一不変なものではないことに気付かせ、自分を守る力。

「曖昧」という言葉は否定的な文脈で使用されることが多いだろうが、積極的な価値がたしかにある。

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夕飯の準備。豚肉炒めすぎて固くなった。銀座の山形県アンテナショップで買った「山形のだし」や「蕪漬け」と一緒に白米を食べるのが最近の楽しみ。

2021/04/25(月)