読書日記【016】つかず離れず

砂浜に海の家の骨組みが。雲間から朝日が顔を出すと、渚を散歩していた人びとは蜘蛛の子を散らすように消えた。

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何を書いているんだい?
「これはわたしの辞書よ」とカタリナは答えた。「言葉を忘れてしまわないように書いているの。わたしが今かかっている病気と、子どもの頃にかかった病気も全部、書き出している」

 カタリナはそのノートを私に手渡した。彼女の手書きの文字はいびつで、ブロック体でつづられている。筆記体はない。動詞を二つ三つただ並べたものもあれば、完全な文章もあった。私はカタリナの言葉の力に驚いた。彼女の荒削りの詩に。

 離婚
 辞書
 規律
 診断

 無料の結婚
 有料の結婚

 運用
 現実
 注射をする
 痙攣を起こす
 からだのなかに
 脳の痙攣

ジョアオ・ビール(著)『ヴィータ 遺棄された者たちの生』みすず書房より

言葉の意外な組み合わせが、思わぬ詩情を喚起することがある。言葉の組み合わせの妙について考えるとき、私は俳句の世界をまず思い浮かべる。

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ある俳人は、「抱く孫の 瞳のうるみ」という五・七・五のあとに「鯉のぼり」と下七をつけた素人の句に対して、「鯉のぼりではせいぜい五年の人だな。私なら”山法師”とします」と答えたという。

「孫」と「鯉のぼり」では、関係が近すぎる。絶妙に離れた山野の木の「山法師」を持ってくるには三十年かかると。つかず離れずの言葉をどう結びつけるかが腕の見せ所らしい。

〈以上、後藤明生『挟み撃ち』奥泉光&いとうせいこうの解説より〉

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この「つかず離れず」という感覚が素人には難しい。

統計上、言葉の組み合わせが使われる確率を計算すれば、言葉同士の距離を数値化できる。「つかず離れず」の塩梅が数値で定量化できれば、機械学習によって名句の量産が可能になるかもしれない。

……などと考えていたら、文章生成モデル「GPT-2」を利用したAI俳句なるものがすでに開発されていた。

aihaiku.org 

精度の高い句より、精度の低い句の方が言葉の組み合わせに(人間ではなかなか思いつかない)意外性があって面白いと思うが、どうだろうか。

 

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ぐずる赤ん坊をあやしているとき、「僕には時間がない」「君には時間がある」「僕には時間がない」「君には時間がある」…と陽気にくり返す歌がイヤホンから流れてきた。坂本慎太郎の「君には時間がある」。

2022/06/05(日)