読書日記【010】感謝の気持ちを示す

晴れた日の翌日は雨が降る。雨が降る翌日は晴れる。今日は快晴。自転車で二つの山を駆け上り、電車を乗り継ぎ、家族が入院する病院へ。

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わたしはまだ生きていてそのことに感謝している、自分自身を裏切らず生きていこうとすることでその感謝の気持ちを示すことももしや許されるのではないでしょうか。わたしが遠慮することなく思いのままに物を書くようなとき、生真面目この上ない方々の眼には、少しばかり奇妙に映るのかもしれません。しかしながら、言葉の中にはそれを呼び覚ますことこそ喜びであるような未知の生のごときものが息づいている、そう願いつつ望みつつ、わたしは言葉の領域で実験を続けているのです。

ローベルト・ヴァルザー(著), 新本 史斉 他 (翻訳)「わたしの努力奮闘」より

自分自身を裏切らずに生きてゆくことで、生きていることへの感謝の気持ちを示す。良い言葉だ。それ以上のことは言う気がしない。本当に美味しいものを食べたとき、美味しい!以上の言葉が思いつかないのと同じ。

ヴァルザーの文章(「タンナー兄弟姉妹」)に初めて触れたとき、迷わず、彼の残りの著作を全て注文した。一人でも多くの人にこの作家のことを薦めたいが、彼の魅力については誰とも語り合いたくない。私にとってややこしい位置づけの作家だ。

彼の魅力は語り難い。書かれた文章は、だいたいがくだらない。ためになることは書かれていない。それでも面白い。この魅力はなんだ。なんと表そう、とずっと考えていた。ぴったりの言葉が、彼自身の言葉の中から見つかった。彼の言葉の中には、それを呼び覚ますことこそ喜びであるような未知の生のごときものが息づいている。

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待合室で家族の手術を待つ。手術の失敗、死、の可能性がちらつく。2時間。コンラッドの『シークレット・エージェント』を読みながら、ページをめくる手を何度も止め、その度になんとなく窓の外の青空をカメラで撮影する。そわそわしていたのだ。

母子ともに無事だとわかった瞬間は、本当にほっとした。医師や助産師からはおめでとうございますと言われたが、めでたいという気持ちより、とにかく安堵した。生まれたばかりの子どもは、赤茶色に薄汚れていて、指先で頬を軽く触れると、ふよふよしていた。

2022/05/11(水)