読書日記

読書日記【029】整理し目を通す

しとしと雨が降る。シルクのようになめらかな海を、ビルの屋上から老人たちが無言で見つめている。 *** ロイトハマーの遺稿を整理し、目を通すこと、整理することと目を通すこと、この二つのことばかりを私は考えていた。誰にともなく私は整理し目を通すとく…

読書日記【028】翻訳して届けてくる

喉が渇き、夜更け、自動販売機を探し歩く。大通りの灯りが次々と消え、24時間営業のコインランドリーの明るさだけが街に残る。店内で漫画雑誌を読み耽る男が一人。 *** わたしたちの聞く雨は滴り落ちる水の静寂ではなく、雨が出くわすさまざまな物体が翻訳し…

読書日記【027】相手を恐れさせよ

ワイシャツにスラックス姿の父親が、片手でゆっくりとサッカーボールを地に転がす。その跡を小さな子どもがよたよたしながら追いかける。広場の中心には空のベビーカー。その影がこちらに向って鋭く伸びる。 *** 《相手を恐れさせよ》と、ジュリヤンは急に本…

読書日記【026】洋燈の力の届かない

プールサイドに一匹の蜻蛉がやってくる。はるかさきの崖に、とんびの滑空する影が落ちる。崖の上にはがらんどうの邸宅が並ぶ。 *** その時彼は縁側へ立ったまま、「どうも日が短かくなったなあ」と云った。 やがて日が暮れた。 昼間からあまり車の音を聞かな…

読書日記【025】名句を思いだす

朝、くすんだ色の雲が幾重にも塗り重なり、霧のような雨が降る。道行く人は誰も傘を開かない。遠くで幽かにセミの鳴く声がして、イヤホンを外す。 *** 日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身に沁む、その時は路をいそぎた…

読書日記【024】新婚旅行

夜、海辺の方角に柔らかな橙色の明かりが灯る。海の家の営業が始まったか。近づいてみると、公衆便所の灯りだった。 *** やがて二人は結婚したが、お金がないので新婚旅行はちょうどそのころミラノで開通したばかりの地下鉄に、都心のドウオモ駅からサン・シ…

読書日記【023】両手の物語

日が暮れたあとの街をみんながぶらついている。縁側で西瓜を食べる子どもたちもいて、絵に描いたような夕涼みの場面。 *** ウィング・ビドルボームは両手でたくさんのことをしゃべった。その細くて表情豊かな指、常に活動的でありながら常にポケットのなかか…

読書日記【022】勝利の栄冠

二人の男女が裸足で浅瀬に立っている。手を繋いで、海の向こうを見つめている。夕暮れの海風が吹き抜けて、二人の白い髪がなびく。囁きあう声はこちらには届かない。 *** もはや征服すべき国がなくなったアレクサンダー大王が号泣したことは誰でも知っている…

読書日記【021】罠に身体を預けたまま

通りに男がたたずんでいる。旅館の庭先をただ凝視している。くもり空の下でいびつなほど鮮やかなレモンイエローのジャージ。すれ違いざま彼の見つめる先を一瞥すると、庭木に生るコケモモの実だった。 *** マスターが見抜いた少年の最もすぐれた能力は、彼が…

読書日記【020】ドア・ストップのように

暮合いの海辺で、小さな双子がぴょんぴょん飛び跳ねているのを見る。波が押し寄せてくるたびに飛び上がり、キャッキャと歓声を上げる。それを飽きずにくり返している。日が落ちるまで。 *** 幸福は時を引き伸ばす。毎日が一遍の長編小説のように長く感じられ…

読者日記【019】古典作品の魅力

夜中、窓を開けて外の空気を吸う。雨、しっとりとした夜気。金魚鉢からあぶくのはじける音がする。 *** 作品の選定基準のひとつは、作者が文学の決定的な力、ほとんど魔術的な力を信じていることだと述べ、十九歳のナボコフを、ロシア革命のさなか、弾丸の音…

読書日記【018】人の温もりを浴びる術

昼に家族と散歩する。雲と雲の間の底に青空が見える。電線の上に一羽の鳥が止まる。あれは山鳩ではないかと噂する私たちの頭の上で、鳥がトゥートゥーットゥトゥーとやりはじめる。 *** 成人後の生活でキエルケゴールが客を招くことはほとんどなく、実に生涯…

読書日記【017】小さなひと手間

穏やかな海、白糸のような雨。途中駅で修学旅行生の団体が搭乗、電車の中はにわかに騒がしくなる。走行中、学生たちの鞄から吊るされたJTB社のタグがゆらゆら揺れる。 *** けれども内容に感情が関係するときには、小さなひと手間が喜びを生む。痛みのない、…

読書日記【016】つかず離れず

砂浜に海の家の骨組みが。雲間から朝日が顔を出すと、渚を散歩していた人びとは蜘蛛の子を散らすように消えた。 *** 何を書いているんだい?「これはわたしの辞書よ」とカタリナは答えた。「言葉を忘れてしまわないように書いているの。わたしが今かかってい…

読書日記【015】暴力にたよる以外の

コンビニエンスストアでひまわりの花束を買う客を見かける。真紅の薔薇の花束を買う客も。売り場には色々な花が。その中に淡いピンク色の紫陽花があった。札には”アフタヌーン・ドリーム”と書かれている。 *** 庭は植物による侵略の働きを管理できるだろうか…

読書日記【014】覚悟を決める

砂浜は真夏の海水浴のよう。炎天下の駐車場で車座になる若者たちと、濃紺色のコンクリートに散るミモザの黄色い花びら。 *** 過去の不正がどう正されるというのかね? もう存在しない事柄に対して償いなんてありうるのかね? どうだい? 無理に償いを求めた…

読書日記【013】我慢強さ

日が落ちた後は、ベランダの窓をそっと開く。木々のざわめき、国道を走るバイクの音、年老いた犬の遠吠え。腕の中の赤ん坊は天井を見つめている。 *** 逆境でも努力を重ね、貧窮に耐え、社会でのし上がるために懸命に働いたあげく、自分の価値を過大に評価す…

読書日記【012】心の中の声を止める

からっと晴れた青空。モノレールに乗る。軌道と並走する電線を窓から目で追う。線上で羽を休めるカラスが一匹、二匹、三匹。反対側の窓外は、無数の一軒家が地平を埋め尽くすひと昔前のニュータウン。 *** 「自分から何か言いたい、でも、人の話も聞かなけれ…

読書日記【011】素晴らしい連帯

しとしとふる雨。晩から明朝にかけて強風警報発令。これから強風で雨が激しくなるのかと思うと、ポストに手紙を投函しに家を出る気が失せる。結局、外出せず。 *** エドヴィッジと彼、ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が…

読書日記【010】感謝の気持ちを示す

晴れた日の翌日は雨が降る。雨が降る翌日は晴れる。今日は快晴。自転車で二つの山を駆け上り、電車を乗り継ぎ、家族が入院する病院へ。 *** わたしはまだ生きていてそのことに感謝している、自分自身を裏切らず生きていこうとすることでその感謝の気持ちを示…

読書日記【009】あるのはしるしだけ

踏み切りを渡ると、雨がぽつりと降り出し、木々はざわめき、冷たい風が通り抜けた。連休が終わる。 *** 人生はいつもわたしの手からすべりおちていった。わたしがみつけるのはその足跡、つまらない抜け殻だけ。わたしがその座標をさだめるやいなや、人生はす…

読書日記【008】危険な緊張

庭園を散歩する。紫色のツツジの花が咲きそろう。ベンチに腰掛けて振り向くと、すっきりとした青空。 *** チェントヴィッチは相手を静かに落ち着いて見やったが、その石のように硬い眼差しには、何か固められた拳のようなものがあった。突如として二人のプレ…

読書日記【007】なにを怖いと感じていたのか

午睡から目醒めると雨が止んでいる。外を散歩するが、植木の葉っぱ、ポリバケツの蓋、車両のボンネットを濡らす水滴を除けば、通り雨の痕跡は見つからない。夕空にはピンク、灰色、濃紺色の三色の雲。 *** 南北をとおして、江戸の人々がなにを怖いと感じてい…

読書日記【006】若者にない力

雨ときどき大雨。電車の窓から海が見える。波は妙に穏やかで、沖合のサーファーたちが棒立ちする姿が点々と過ぎてゆく。 *** あることを何百万回も繰り返すと、確かに新鮮味は失われるだろうが、一方で味わいは増す。味わいを増した過去、そして経験。過去に…

読書日記【005】散歩

快晴。午後の陽射しは私たちの体をじんわりと暖めるが、通りを吹き抜ける風は冷たい。日沈のあとはきっと寒くなるはず。閑古鳥だった定食屋が観光客で満員。 *** でも、ああ神さま、もう十分です、僕は出かけなくてはなりません、世界の中へ飛び込んでいかね…

読書日記【004】ものすごく強力で魅力的な何か

大雨。傘を打ちつける雨音、耳からイヤホンを外す。家族へのお土産にからあげ専門店で鶏の唐揚げを買う。雷が落ちる音がした。 *** 「こうして聞いてるとなんか悲しくなってくるな。あんた、まるで俺の精神科医みたいだよ。自分で話してる内容を聞くと、実際…

読書日記【003】愛の作法

庭の鉢植えが倒れる音で目が覚める。春の嵐。今日は曇り空。雲が流れるスピードが早くて嘘みたい。 *** もちろん、音楽マニアにとっては、飽きていくのは消費というよりむしろひとつの愛の作法であって(いつまでも「この一曲」だけを大切にして、ずーっとし…

読書日記【002】とてつもなく長い時間

雨ばかり降る。窓の外をぼんやり眺める。たちこめる霧の向こうから、二羽のマガモが歩いてくる。 *** 競馬場にいると時間が実際に削り取られていくのをひしひしと感じることができる。今日のこと、第二レースのために馬たちがゲートに向かっていた。スタート…

読書日記【001】 文学的表現の核心

夕方、海岸を散歩する。風は穏やか。男の子と父親が砂浜に並んで腰掛け、ポテトチップスをつまんでいる。波打ち際にカラス。日が沈む。 *** 情報の多義性と不確定性を増やす。これが文学的表現の力ではないかと。なるほど、たしかにと思う。 一つの言葉に複…