本の紹介:読書日記から5冊【006−010】

過去の読書日記に引用した本について、5冊分まとめて紹介。 

【006】ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』

 

ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫)

変哲のない日常風景に、きらめくような美しい一瞬があることを思い出させてくれる小説。

鐘が鳴る直前の静けさ。青空を横切るカモメの群れ。車が去ったあとのショッピング・ストリート……。ささやかな瞬間の印象に生きる歓びを見出す感受性の鋭さは、いつの日か歓びが感じ取れなくなってしまう不安と表裏をなすようでもあり、危うさがある。

狂気にのみこまれる自分を怖れながら、その恐怖こそが作家としての霊感の源泉にもなりえる。そうしたジレンマが、文体だけなく物語構造にも昇華されている本作は、何度読み返しても細部に発見がある。

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【007】朝吹真理子『だいちょうことばめぐり』

 

だいちょうことばめぐり

幼少期や人との出会いなどの記憶をめぐるエッセイ。

身近で親しみやすい内容でありながら、数百年前の上流貴族の暮らしぶりを聞かされているようでもある。いつの時代に書かれたかわからない、時空のあわいを漂うような”TIMELESS"な文章が魅力。

ときどき、著者の「失われたもの」へのまなざしの強さにどきりとする。鶴屋南北東海道四谷怪談を引きながら江戸時代の人々の暮らしに想いめぐらし、”少しでも、もういない死者に近づきたい”と吐露するくだりなどはその代表例かと。

読めば自然と、井原西鶴や三浦梅園など、江戸時代の文学や思想に興味を持つようになる点も、私生活を綴る他のエッセイにはあまり見られないユニークなポイント。

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【008】ツヴァイク『チェス奇譚』

 

過去への旅 チェス奇譚 (ルリユール叢書)

どちらも負けてほしくない二人が最後、チェスで勝負する。面白くならないはずがない。

一人は、周りから何の取り柄もない愚鈍な男と見られていたが、ある偶然からチェスの才能を見出され、またたく間に世界チャンピオンまで上り詰めた天才。

もう一人は、ナチスに監禁されて発狂寸前、偶然入手したチェスの棋譜集を繰り返し読み、対局を妄想し続けることによって拷問を耐え抜いた旧貴族。

白熱する展開に息をのむと同時に、自分を救った存在にやがて狂わされてしまう人間の哀しさが胸を打つ。チェスを語りながらより普遍的な人生の一面をえぐり出した傑作。

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【009】オルガ・トカルチュク 『逃亡派』

 

逃亡派 (EXLIBRIS)

〈移動〉をめぐる113の断章。落語の三題噺のように、一見無関係のようにみえる断章間のつながりをあれこれ想像するのが楽しい作品。

旅先の失踪願望や「旅行心理学」の講義、たえず移動することを教義とする実在のロシア正教セクトなど、登場するモチーフはいずれも興味深く、寓意に満ちている。

加えて、幻肢痛に悩む解剖学者、祖国に埋葬するショパンの心臓、プラスティネーション技術の歴史など、「解剖」や「標本」によって死後持ち運び可能となる身体〈移動〉まで語られる。その射程範囲の広さに著者の発想の非凡な豊かさを感じる。

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【010】ローベルト・ヴァルザー『わたしの努力奮闘』

 

ローベルト・ヴァルザー作品集4: 散文小品集I

報われない作家の「努力奮闘」。スケッチのような短めの散文を書きまり、編集部に送り続ける毎日。反響はまったくない。売文業としては嘆かわしい自身の状況を、お得意の戯れるようなほがらかな文章で書き散らしている。

なぜ作家は書き続けるのか。その答えを著者がめずらしく開陳した場面が日記【010】に引用した文章である。数多の作家たちが回答してきたであろうその問いに、「生きていることへの感謝」を挙げた作家が今までいただろうか……!

彼の綴る言葉にはいつも、とりとめのない愚痴や嘆きのようなものでさえ、生き生きとした躍動感に満ちている。その謎が、本作品によって少し解けたような思いがする。

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ヴァルザーについては読書日記【005】でも引用。

本の紹介のバックナンバーはこちら

読書日記【017】小さなひと手間

穏やかな海、白糸のような雨。途中駅で修学旅行生の団体が搭乗、電車の中はにわかに騒がしくなる。走行中、学生たちの鞄から吊るされたJTB社のタグがゆらゆら揺れる。

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けれども内容に感情が関係するときには、小さなひと手間が喜びを生む。痛みのない、すばやい「TVB[Ti Voglio Beneの略語、大好きの意味]」は、他のどんな「TVB」とも同じだが、形式と内容について考えられ、その人の筆跡でカードに書かれていたら、他のどんな「TVB」とも違う。もちろん、相手にメッセージが届くまでには時間がかかる。しかし、待つ時間や驚きの余波を軽くみるべきではない。

フランチェスカ・ビアゼットン (著)『美しい痕跡 手書きへの讃歌』みすず書房

小さなひと手間を加えた事実が少しでも相手のよろこびになるのであれば、それはもう”手間”ではないと思う。

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手書きの手紙やカードには格別の喜びがある。送るときも、受け取るときも。

モノとして残るのもよい。すっかり忘れた数年後、部屋の掃除中に見つけて読み返すそれらのなんと面白いことか。データは過去の履歴を検索しないと読み返せないので、メッセージの存在自体忘れたらおしまいだ。

唯一の難点は、やりとりする相手がなかなか見つからないこと。何でもない日に突然送ったら相手が戸惑うかもしれない、などと気を遣わなくてもよい相手が。

昔は雑誌の誌面で読者が氏名・住所を公開し、文通相手を募集していたらしい。個人情報保護意識の緩い牧歌的な時代の文化だ。

最近は文通相手をマッチングする文通村のようなウェブサービスもあるようだが、互いに個人情報は非公開のままやりとりできる仕組みになっているそうだ。

(ところで、いつごろから私たちは自分のすまいや居所を他人に知られてしまうヤバさに気づき始めたのだろうか?タウンページなんて今考えたら嘘みたいだ)

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最近スーパーやコンビニでカットレタスを見なくなった。

2022/06/06(月)

読書日記【016】つかず離れず

砂浜に海の家の骨組みが。雲間から朝日が顔を出すと、渚を散歩していた人びとは蜘蛛の子を散らすように消えた。

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何を書いているんだい?
「これはわたしの辞書よ」とカタリナは答えた。「言葉を忘れてしまわないように書いているの。わたしが今かかっている病気と、子どもの頃にかかった病気も全部、書き出している」

 カタリナはそのノートを私に手渡した。彼女の手書きの文字はいびつで、ブロック体でつづられている。筆記体はない。動詞を二つ三つただ並べたものもあれば、完全な文章もあった。私はカタリナの言葉の力に驚いた。彼女の荒削りの詩に。

 離婚
 辞書
 規律
 診断

 無料の結婚
 有料の結婚

 運用
 現実
 注射をする
 痙攣を起こす
 からだのなかに
 脳の痙攣

ジョアオ・ビール(著)『ヴィータ 遺棄された者たちの生』みすず書房より

言葉の意外な組み合わせが、思わぬ詩情を喚起することがある。言葉の組み合わせの妙について考えるとき、私は俳句の世界をまず思い浮かべる。

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ある俳人は、「抱く孫の 瞳のうるみ」という五・七・五のあとに「鯉のぼり」と下七をつけた素人の句に対して、「鯉のぼりではせいぜい五年の人だな。私なら”山法師”とします」と答えたという。

「孫」と「鯉のぼり」では、関係が近すぎる。絶妙に離れた山野の木の「山法師」を持ってくるには三十年かかると。つかず離れずの言葉をどう結びつけるかが腕の見せ所らしい。

〈以上、後藤明生『挟み撃ち』奥泉光&いとうせいこうの解説より〉

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この「つかず離れず」という感覚が素人には難しい。

統計上、言葉の組み合わせが使われる確率を計算すれば、言葉同士の距離を数値化できる。「つかず離れず」の塩梅が数値で定量化できれば、機械学習によって名句の量産が可能になるかもしれない。

……などと考えていたら、文章生成モデル「GPT-2」を利用したAI俳句なるものがすでに開発されていた。

aihaiku.org 

精度の高い句より、精度の低い句の方が言葉の組み合わせに(人間ではなかなか思いつかない)意外性があって面白いと思うが、どうだろうか。

 

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ぐずる赤ん坊をあやしているとき、「僕には時間がない」「君には時間がある」「僕には時間がない」「君には時間がある」…と陽気にくり返す歌がイヤホンから流れてきた。坂本慎太郎の「君には時間がある」。

2022/06/05(日)

読書日記【015】暴力にたよる以外の

コンビニエンスストアでひまわりの花束を買う客を見かける。真紅の薔薇の花束を買う客も。売り場には色々な花が。その中に淡いピンク色の紫陽花があった。札には”アフタヌーン・ドリーム”と書かれている。

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庭は植物による侵略の働きを管理できるだろうか? おそらく迎え入れることができるし、そこからさらに方向づけることもできるだろう。
 そうだとすれば、侵略的外来種を撲滅しようとすることは、この侵略の働きの前に屈したことを認めることに他ならない。というのも、それはわたしたちの現在の知識が暴力にたよる以外の手段を知らないことを示しているからだ。

ジル・クレマン 『動いている庭』みすず書房より

畑で野菜や花を育てていると、犠牲にしなければならない命の多さに気づく。

次々と生えてくる雑草は片っぱしから引っこ抜くし、害虫は見つけたら捕殺する。作物自身にしても、のちの収穫をコントロールするため、成長の遅い芽は間引き、脇芽などの余計な部位は摘み取る。

自分たちの都合で他の生命を「操作」している、という強烈な実感があった。うぶで大げさかもしれないが、暴力にたよる加害者としての自覚である。暴力には反対だが、さまざまな形の暴力を(ときに無自覚に)利用して生きる自分のことを棚上げにはしたくない。

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近い将来の洗濯物の増加を見越して、小型の衣類乾燥機を買った。その仕上がりに驚いている。タオルやシャツがふかふかだ…!

家族は、このふかふかな洗濯物に埋もれて窒息してもよいと言っている(それくらい心地よい仕上がり)。もっと早く買ってもよかった。

2022/05/31(火)

読書日記【014】覚悟を決める

砂浜は真夏の海水浴のよう。炎天下の駐車場で車座になる若者たちと、濃紺色のコンクリートに散るミモザの黄色い花びら。

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過去の不正がどう正されるというのかね? もう存在しない事柄に対して償いなんてありうるのかね? どうだい? 無理に償いを求めたりすると思いもかけない結果を生むことにならないかね? 将来こういう結果になると分かっている行為などあるかね?

だからどんなひどい目にあっても、どんなにがっかりするようなことが起こってもかまわないという覚悟が必要だ。分かるかね? しかしすべての行為にそんな覚悟を決めるほどの値打ちがあるわけじゃない。

コーマック・マッカーシー 『越境』より

何かよくない出来事が起きることを想像して不安になることを"予期不安"と呼ぶらしい。将来の精神的ショックの先取り、いわば心の予防接種。

ひどい目にあうかもしれないと不安がることと、ひどい目にあったってかまわないと覚悟を決めることは、ひどい目にあう自分を想像している点で似ている。異なるのは、そうなる自分を受け入れるかどうか。予期不安はどうすれば覚悟に変わるのか?

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ムナリモビールを自作する。天井に吊るすガラス玉は、ガチャガチャの空カプセルで代用。

2022/05/29(日)

読書日記【013】我慢強さ

日が落ちた後は、ベランダの窓をそっと開く。木々のざわめき、国道を走るバイクの音、年老いた犬の遠吠え。腕の中の赤ん坊は天井を見つめている。

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逆境でも努力を重ね、貧窮に耐え、社会でのし上がるために懸命に働いたあげく、自分の価値を過大に評価するようになったため、世間が彼を正当に遇することは非常に難しかった──何が正当かという基準は人それぞれの我慢強さに大きく左右されるのだから。

コンラッド『シークレット・エージェント』光文社,p.129

何が正当か、などと考えるのは、何かが「不当」であると──物事の正当性が損なわれていると──感じた時ではないだろうか。不自由を知らない者が自由について考えをめぐらし、不平等を経験したことがない者が平等を意識するだろうか。それらと似ている。

生きていく上で、多少の不愉快は当たり前だと考えるような人は、いちいちそれが「正当」か「不当」か意識しないだろう。その方が我慢強くいられるだろうが、そういう人たちは人生に対する期待値が低いのかもしれない。

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我慢の語源は仏教用語の「我慢」で、「自分が人より偉いと奢り、相手を見下すこと」を指す(枡野俊明『仏教の智慧が学べる日々のことば』より)。七つの煩悩の一つだ。

我に執着する意味が転じて、我を抑えることを意味するようになった。どのような経緯で意味が反転したかはわからない。勝手な想像だが、我を抑えるにも我の強さが必要、ということに人々が気づきはじめたのではなかろうか。物体を引っ張るにも押し出すのと同じように力が要ることが。

ちなみに英語のpatientの語源はラテン語の「耐え苦しんでいるもの」。

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窓から蚊が飛び込んできた。そろそろ蚊帳の出番。

2022/05/25(水)

本の紹介:読書日記から5冊【001-005】

過去の読書日記に引用した本について、5冊分まとめて紹介。 

【001】劉 慈欣『三体III 死神永生 下』

 

三体Ⅲ 死神永生 下

「とにかくスケールがものすごく大きくて、読むのが楽しい。これに比べたら、議会との日々の軋轢なんかちっぽけなことで、くよくよする必要はないと思えてくるのも(本書を楽しんだ)理由のひとつだね」

オバマ米大統領の上記発言に偽りはなし。最終巻の本書に至っては超展開の連続で、数ページ毎に驚愕するという、幸福な読書体験だった。

科学技術の未来像に対する豊かな想像力が、そのままストーリーの牽引力となり、次のページをめくらせる。登場する科学用語は理解せずとも楽しめるが、学ぶと著者の発想の非凡さをより味わえる。

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【002】ブコウスキー『死をポケットに入れて』

死をポケットに入れて (河出文庫 フ 3-3)

競馬と創作をくり返す晩年の日々。

ぼやきの多い日記だが、まるで目の前で語りかけてくるようなざっくばらんさと、己の愚かさをさりげなく笑いに転嫁する洗練された諧謔精神が魅力。読者に親しみやすい文章で、どんなに読書が億劫な日でも、本書なら気軽に読むことができた。彼の文体に多くのファンが魅了されるのがわかる。

ときどき垣間見える、老いてなお衰えない、創作に対する情熱に心を打たれる。

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【003】菊地成孔『次のオリンピックが来てしまう前に』

 

次の東京オリンピックが来てしまう前に

平成から令和に移る3年間の時事ネタ中心コラム。

彼の音楽とラジオに魅了されっぱなしなので、未経験者に彼の癖ある文章をどう薦めるのが正解か冷静に判断できないのだが……。

奇抜な意見も最後はなるほどと思わせる饒舌な語り。本筋から幾度も脱線するが、小ネタの選球眼が良いためその回りくどささえ魅力的に感じる。時折の口の悪さにも笑ってしまう。(”私の性格は良いとは言えないが、悪さに関して、あいつらの頭とは比べものにならない”)。

自由奔放な意見が多いが、少なくとも音楽に関する文章だけは彼は絶対に外さない。日記に引用した文章もそのひとつ。

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【004】アシュリー・ミアーズ 『VIP グローバル・パーティーサーキットの社会学

VIP――グローバル・パーティーサーキットの社会学

元モデルの社会学者による、超富裕層向けVIPクラブのパーティーシーンの様子を描いた民族誌。一晩で巨額の富が浪費される「モデルとボトル」社会を、関係者の取材から分析している。

実態のレポートにとどまらず、《登場人物のほとんどが愚ろかな振舞いと自覚しながら、なぜやめられないのか》まで踏み込んでおり、より普遍的な「権力の構造」についての本としても読める。

フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の読後感のような諸行無常の響きあり。

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【005】ローベルト・ヴァルザー『大都市の通り』

ローベルト・ヴァルザー作品集4: 散文小品集I

読書の目的は多々あれど、実用的な情報を得るためでもなく、人生の教訓らしきものを学ぶためでもなく、登場人物への感情移入を楽しむためでもなく、ただ、ただ純粋に、その文章を読むことそのものが目的となり歓びとなる読書というものがある。その稀有な例として真っ先に思い浮かぶのがヴァルザーの文章である。

彼の文章はみずみずしく、のびのびとしており、文章を書く歓びに満ち満ちていると同時に、だらしがなく、へりくつで、奇妙にずれている。このとらえどころのない魅力に、後続のカフカやヘッセ、ゼーバルトクッツェー、日本では小川洋子などの作家たちも虜になったものと想像する。

このへんてこな魅力を手っ取り早く体験するのであれば、本作を初めとする短めの散文を集めた鳥影社の作品集4が読みやすいが、あるいは彼の魅力が炸裂する作品集1の「タンナー兄弟姉妹」をおすすめする。

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ヴァルザーの魅力については読書日記【010】にも記載。

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